2025/05/19 15:38

――カーボニックマセレーションからテロワール、そしてグラスまで

近年、スペシャルティコーヒーの世界では「赤ワインのような」「ピノ・ノワールを思わせる」といった表現がよく登場します。これは単なる比喩ではなく、実際にワインの技術や考え方が、コーヒーの精製や提供方法に深く影響を与えている証拠でもあります。

今回は、コーヒーの世界に取り入れられたワインの醸造技術、そして「テロワール」や「グラス」に至るまで、その関係性を掘り下げてみたいと思います。

 

カーボニックマセレーション:炭酸ガスが変える香味

まず注目すべきはカーボニックマセレーション(Carbonic Maceration)。もともとはフランス・ボジョレー地方で生まれたワインの技術で、破砕せずに収穫したブドウを密閉タンクに入れ、酸素を遮断した状態で炭酸ガスを充満させ、細胞内発酵を進める方法です。これにより、渋みが少なく、フルーティで華やかな香りを持つワインが生まれます。

この手法はコーヒー精製にも応用され始めています。特にコロンビアやエルサルバドルでは、完熟チェリーを選別後、密閉容器に入れて自然発酵またはCO₂を注入。酸素を遮断した環境で数日間発酵させ、内部で代謝反応を引き起こすことで、赤ワインやダークチェリーのような芳醇なアロマと柔らかな質感が得られるのです。

 

嫌気性発酵(アナエロビック):ワインに学ぶ管理発酵

次に紹介したいのが、アナエロビック・ファーメンテーション(嫌気性発酵)。カーボニックマセレーションに近い手法ですが、こちらはタンク内に酸素を入れずに発酵を進める、より広義の概念です。

ワインの世界では、嫌気状態での発酵管理が長年の研究対象であり、発酵温度やpH、酵母の制御が品質の鍵とされています。コーヒーでも、こうした管理思想が導入されており、密閉容器で発酵時間を24時間から96時間と柔軟に変え、発酵の深度と香味のバランスを調整しています。

結果として、従来のウォッシュドやナチュラルにはない複雑な酸味や香りのレイヤーを持つコーヒーが生まれています。

 

酵母という“設計者”を取り入れる

ワイン醸造において、酵母はただの発酵媒介ではありません。狙った香りや構造を出すために、意図的に酵母を選択・添加することがスタンダードです。

この考え方も、コーヒーに波及しています。たとえばラルカフェ社などは、コーヒー向けの酵母製品を開発。選択的に加えることで、「トロピカル系」「柑橘系」「フローラル系」といった風味設計が可能になっています。

もはや「品種 × テロワール × 発酵環境 × 酵母」という多層的な要素が、コーヒーの風味を決定づけているのです。こうしたプロセスは、もはやワイン醸造とほぼ同じ構造を持ってきています。

 

マロラクティック発酵:乳酸が導くやさしい酸

赤ワインにおいて、酸味をまろやかにする技術が**マロラクティック発酵(MLF)**です。リンゴ酸を乳酸菌で乳酸に変換することで、舌当たりをやわらかく、味を円熟させます。

この技術も、今まさにコーヒーで実験的に取り入れられています。特にホンジュラスやエルサルバドルの一部農園では、乳酸菌を添加した発酵工程を導入し、「酸が角ばらず、ヨーグルトのような粘性と丸みをもつコーヒー」を目指しています。

まだ確立された技術とはいえませんが、今後の発展が期待される分野です。

 

テロワール:コーヒーも「土地の味」を語る時代へ

ワインで最も重要な概念のひとつがテロワール(Terroir)。土地の気候、土壌、高度、降水量、日照など、環境全体が味にどう影響するかを語る言葉です。

スペシャルティコーヒーも、このテロワールを深く意識する段階に入りました。特に発酵技術の高度化により、「同じ品種でも、発酵と環境次第でまったく違う味になる」ことが明確に見えてきたからです。

その意味では、テロワール×発酵設計という構図は、今後のコーヒーを語るうえで不可欠になってくるでしょう。

 

グラス(器)に宿る香りの可能性

ここまでの話がコーヒーの「つくり方」に関するものであれば、最後に触れておきたいのは「飲み方」の革新です。
ワインの世界では、ブドウ品種やワインの構造に応じてグラスを変えるのが常識です。香りの拡散の仕方、空気との接触面、液体の流れ方が、味わいに直接影響を及ぼすからです。

近年、コーヒーでもこの思想が浸透してきています。オーストラリア発祥のノーズ・グラス(香りを集中させるカップ)や、スロバキアのカフェが開発したワイングラス型のテイスティングカップなど、「香りをどれだけ立ち上げられるか」「舌のどこに流れるか」を意識した器が生まれています。

特に、カーボニックマセレーションや酵母発酵のロットでは、ワイングラスに近い形状で飲むと、香りの広がりが段違いで感じられることがあります。

 

最後に:コーヒーは“醸造”の時代へ

農作物としてのコーヒーが、「発酵食品」として再定義されつつあります。酵母、乳酸菌、発酵温度、マセレーション時間……これらを制御し、味わいを「設計」する時代です。

そして、そうして生まれたコーヒーを、テロワールとともに語り、適切なグラスで提供する。まるでワインのように、いや、それ以上にストーリーのある一杯が、コーヒーにも可能になりつつあります。

コーヒー好きなら、これからはプロセスの名前発酵方法グラスの形にも注目してみてください。
「この農園が、この酵母で、この温度で、この器で提供される」――そんな情報が、きっと次の一杯をもっとおいしくしてくれるはずです。